阪神優勝狂喜乱舞落下地獄でフリフリでチュー 追記

飛んだ次の日、体調を崩して学校を休みました。全身がだるくて無気力状態に!!多分琵琶湖の汚水が体に染み付いたからだと思う。あ り え な い。
で、後輩にそのこと喋ってたら
後輩「よく飛びましたねぇ瀬田川ってよく引きずり込まれるとか言うじゃないですか」
自分「え!?(顔面蒼白)」
後輩「なんか壬申の乱最終決戦地であの川で3万くらい人が死んだらしいですよ」
自分「ええええええッ!!(全身冷や汗)」
後輩「しかもあそこで溺れたら死体が上がっってこないって。それくらい藻が凄いらしいですよ いまでも何体か絡まって沈んでるんじゃないっすかね!?ハハハハ」
自分「………。」
飛びこんだ後、段々ジーパンが重く感じたのはもしかして……。
▽参考資料(http://homepage1.nifty.com/~sakuranamiki/room1hhh.htm)

〇4世紀「忍熊皇子の乱」、神功皇后の頃、応神天皇忍熊皇子が謀反を起し竹内宿禰神功皇后の家来)に攻められ唐橋から瀬田川に身を投じて敗れた戦い。
〇672年「壬申の乱」、天智天皇没後の皇位継承争いで弘文天皇大友皇子)と大海人皇子(後の天武天皇)が唐橋を挟んで血肉の争いをし、大友皇子に利あらず敗北。 大海人皇子皇位を継ぎ天武天皇となる。
〇764年「恵美押勝の乱」、藤原仲麻呂恵美押勝)が孝謙天皇に対し反乱を起こして失敗し、唐橋を渡って東国へ逃げようとしたが官軍が唐橋を焼き落として渡らせなかったため、湖西から高島に逃げたが捉えられ誅殺された。
〇1183年「寿永の乱」、木曾義仲平知盛率いる平氏軍と唐橋を挟んで争い 勝利して平氏を西国へ追放した。 しかし後白河法皇から「義仲討伐」の院宣源頼朝に下り、その命を受けた源範頼義経との戦いで義仲は勇将今井兼平と共に唐橋の橋板を全てめくり取り破壊するなどして対抗したが、迂回して下流を渡った範頼に敗れ戦死した。
〇1221年「承久の乱」、朝廷の復権を目指す後鳥羽上皇と時の執権北条義時の戦い(総大将は北条時房)で、上皇の京都軍は比叡山の衆徒を率いて唐橋の橋板を撤去して合戦に備えたが、鎌倉軍は宇治まで迂回して京都に入り、上皇軍が敗れた。
〇1336年「建武の戦」、後醍醐天皇建武の中興に対し足利尊氏が反旗を翻し、天皇軍と尊氏軍が唐橋を挟んで攻防戦を交えた。 軍勢に優る尊氏軍は瀬田川を舟で強行渡河し 空前の犠牲者を出しながらも京都入りを果した。しかし唐橋を圧えられ兵糧攻めによって足利軍は九州に落ち、官軍の大勝となった。
〇1571年「比叡山焼き討ち」、信長は比叡山焼き討ちの際、唐橋東詰の瀬田城(後述)で指揮をとり4万の大軍が唐橋を渡って比叡山に向った。

普通にシャレになってない。今日ほど生きてて良かったと思ったときはない。生命は素晴らしいですね<蒼白